経験

先日、私のパートナーが、とある年長者から育児のことで「アドバイス」をされていました。そして最後にその方はこう言うのです。
「私たちはいろいろ経験をしてきたことを踏まえてアドバイスしているのだから、正しいアドバイスなの。アドバイスどおりすれば大丈夫なんだから」

一面ではそのとおりだと思うので、その場では頷いたのですが、どうしても引っかかるのです。
――あなたの経験は、正しい体験だったのですか? と。

経験をふまえてアドバイスする、ということは、その現象・問題を体験・経験していない人には新鮮だし、問題解決の手段を一つアドバイスしてもらうのだから、大切に違いありません。したがって、大いにアドバイスを参考にすべきです。

では、その人が通過した「経験」と「問題解決の手段」が、果たして適切で正確なものだったのでしょうか。そして、「問題解決の手段」は1つだけなのでしょうか。

「アドバイス」は重要ですが、それが正解かどうかは、わかりません。ですから、「アドバイスどおりやれば大丈夫」という「アドバイス」は、そのまま受け取るわけにはいきません。
しかし、こと育児問題でいえば、「おばあちゃん(年長者)のいうことは正しい」という「信仰」が極めて強い気がします。そのことは、結果として、若者の育児環境にいい影響を与えていないのではないか、と最近強烈に思うのです。
最近は、核家族化・共働きが進み、同時に地域でのコミュニケーションが希薄になっています。その結果、身近な「年長者」が、極めて少なくなっているため、「年長者のアドバイス」も極めて少なくなっています。つまり「年長者のアドバイス」が、「ごく限られた少数の、個人のアドバイス」に矮小化されてしまっています。
だから、その「アドバイス」を鵜呑みにすれば、狭い経験の中(アドバイスした人の人生経験の範囲内)でしか、子育てはできなくなります。

「子どもが泣くときは引っ叩けば泣きやむよ。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」
「パチンコ行くときは子どもを車に残しておけばいいの。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」
「子どもは一流大学に入れれば将来安泰。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」
「男の子には家事なんかさせなくていい。逞しく育ってくれればいいの。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」
「女の子は社会に興味持たなくたっていい。優しく育ってくれればいいの。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」
「男親は子育てしなくたっていい。お母さんが一生懸命やればいいの。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」
「嫁は家庭に尽くしなさい。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」
「選挙なんか行かなくてもいい。私も行ってないから。私のアドバイスどおりやれば大丈夫」

――どこが大丈夫なんだよ。

芥川龍之介は、『侏儒の言葉』のなかで、こういっています。

「われわれは人生とたたかいながら、人生とたたかうことを学ばねばならぬ」

主体的にモノを考えること、それが「たたかう」ということではないかと。

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