夜、東松島市で仕事だったので、クルマを走らせている途中、西の空が気になってつい見つめてしまいました。
夕焼けを見ていたら、「死」を意識しました。
なぜだかわかりません。
「死」をイメージすると、「生」を実感できるからでしょうか。
別に「死にたい」とか、そういうことではないからね。
ボーイング777が離陸するとき、
E2系がトンネルに入ったとき、
スバルBL5で東北道をガチンコ走行してスピードリミッターが効いたとき、
「死」のイメージは、自分にいつでも付きまとっています。
そもそも高速を走るときは、つねに「死」を背負いながら走ってます。
今朝だって、昨夜のシンガポールGPで、ネルソン・ピケJr.がクラッシュしたときの残像が頭の中にあったので、東北道の防音壁が、コースバリアに見えてましたから(笑)。
で、「生きている」ことを実感できるのです。
そして、「生きること」に執着したくなるのです。だって、生きていないと、楽しいこと味わえないでしょ。
そうか、「死と官能は隣り合わせ」ってそういうことだ。
コメント
むーん さん >
「生きる」ことに執着できるのは、「死」への恐怖ではなく、「死」を通して、「生きる」ことに素晴らしさを感じられるから、だと思います。
正直言いますけど、「死んでもいいかな」という瞬間は、人生の中で何度かありました。「あ、死ぬ」という瞬間も3回くらい味わいました。
「あなたは死なないわ。私が守るもの」と言ってくれる人が回りにいるから、生きているんです(爆)。