認識と実践、その弁証法的関係

よく子どもに「早く○○しなさい!」と、叱ることがあるのですが、これに対する子どもの返答は大抵、「今やろうと思ってたのに」か、「わかってるからいちいち言わないで!」か、どちらか。
…自分もよく親にそう言っていたので(笑)。

さて、このやりとりを改めて考えると、「認識」と「実践」の関係、という弁証法的な認識の発展をよく表しているなあ、と思うのです。

子どもの「反論」に対して、「わかってるなら行動してるはず。わかってないから行動してないんでしょ」と、さらにたたみかける自分もかなり大人げないのですが(笑)、ちゃんと「認識」されていないから「実践」がともなわないんです。つまり、「わかってない」から行動できていないのです。

話がいったりきたりしましたが、そもそも「認識」は、「実践」の中から生まれます(あれ?W)。

実践をつうじて、現実の対象にアプローチするところから発生する「感覚」。これが「認識」のスタート。
そのときに感覚器官がつかまえた全ての情報(刺激)の中から、「問題意識」や「関心」を基準にして、情報を取捨選択して、意識的に思考の材料としていきます。
だから問題意識も、実践的な関心もなければ、認識には発展しないわけです。
認識を広げるためには、鋭い実践的な関心を持って対象にぶつかることが必要だし、常日頃からその対象に接触していることが大事なんです。

恋愛するときはまさにそうですよね[E:heart]
 …ってここで私が恋愛講座をしても、説得力ないのでやめますが。
 現実の対象にアプローチするときに、相手を知ろうとしたり、自分をわかってもらおうとしたりしながら、
 だんだんと関係が変化していくでしょ。 

仕事もそう。
 仕事相手とWIN=WINの関係をつくるためには、相手のことを深く理解しないとだめです。

一方で、認識が進めば、問題意識だって発展します。
つまり、実践をベースにしながら、感性も理性もどんどん磨かれていき、同時に実践もさらに深まり、鍛えられていきます。認識の発展のためには、実践から離れることはできないのです。

だから、あいまいな認識のままだと、実践もあいまいなんです。
学習を深めて、初めて実践も深まるのです。

もし、「私は実践あるのみ。理論学習は苦手だし、やる気がわかない。実践の中から見つけ出します」などという生意気な同僚がいたら、一喝すべし。

「あなたの実践はすべてを解決できるのですか?」と。

そういう人に限って、新しい問題がおきると、道を切り開くことはせず、困難から逃げていきます。
解決するための道を探すためには、やはり、認識を深める学習は不可欠。学習への問題意識がでてこない、というのは、きっと実践が本格的ではなく安易・中途半端だからだと、喝破してやりましょう。

※以前、こんなエントリーを書いたことがありますが、これらとて同根です。
 ❏ 「無感性」(2006年2月1日)
 ❏ 「経験」(2004年6月18日)

では、最初の話、子どもへの対処はどうするか?
叱るだけではなく、子どもの認識を深めるような実践をさせること。それが答えです。
…頑張ります[E:gawk]

コメント

  1. Hoso より:

    お久しぶりです。
    哲学にとても関心があるので思わずコメントしました。
    まるで、「新・○くものの学習○礎講座 哲学」ですね(笑)
    子育ての中で哲学を実感する。素晴らしいですね。
    生活(実践)の中に哲学を生かそうとする姿勢、見習いたいです。

  2. Hoso より:

    お久しぶりです。
    哲学にとても関心があるので思わずコメントしました。
    まるで、「新・○くものの学習○礎講座 哲学」ですね(笑)
    子育ての中で哲学を実感する。素晴らしいですね。
    生活(実践)の中に哲学を生かそうとする姿勢、見習いたいです。

  3. billancourt より:

    Hoso さん >
    さすが、ですねえ[E:up]
    ちゃんと元ネタ、わかってらっしゃる。
    その本は、記憶するぐらい読みまくったので(笑)。
    子どもの成長は、まさに弁証法。
    そのことを保育園でたくさん学ばせてもらいました。

  4. billancourt より:

    Hoso さん >
    さすが、ですねえ[E:up]
    ちゃんと元ネタ、わかってらっしゃる。
    その本は、記憶するぐらい読みまくったので(笑)。
    子どもの成長は、まさに弁証法。
    そのことを保育園でたくさん学ばせてもらいました。

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