3・11から5週間経過。

ようやくブログに向き合う気力が沸いてきました。

あの日の朝、子どもが珍しく「頭が痛いから学校行きたくない」、って言うもんだから、会議もあったんだけど、思い切って仕事を休んだんです。子どもは結局、学校に行ったのですが、なんとなく帰ってくるような気がしたものですから、そのまま休むことを決意して、家におりました。

確定申告の締め切りも近づいていたし、丁度いい、今日税務署に行ってこよう、申告書をプリントしようとしたのですが、プリンタが絶命状態。今さら手書きするのも嫌なので、プリンタを買おう!と決意。ネットで調べていたら時間がどんどん過ぎてしまい、ようやく決断して家を出たのが14:30過ぎでした。

家電量販店まであと少し、のR4バイパスの交差点手前で信号待ち渋滞に巻き込まれ、用水路にかかる橋の手前で停まっていた時でした。ラジオから緊急地震速報が流れるのとほぼ同時にクルマが揺れだしたのです。最初はたかをくくっていたのですが、揺れがどんどん激しくなり、サイドブレーキを引いているのに動いていきそうな状態に。目の前にある量販店のサインポールや電信柱が激しくしなり出した辺りで、これはとんでもない地震だ、と実感。
さらに、自分の前の橋の付け根が徐々にずれていくではありませんか。これにはちょっとビビリました。しかも揺れが治まらないんです。2分以上は揺れていた気がします。こんなに長い地震は生まれて初めてでした。

揺れが治まったと同時に、ラジオから「津波が来ます。ただちに高いところに避難してください」と絶叫する声。我に返って、刑事ドラマばりにUターンし、家に引き返しました。
子どもも学校から帰るか帰らないかの微妙な時間だったので、まずは学校へ。途中で子どものお友だちに会って、すでに児童館にいることがわかったので、引き返し、児童館に迎えに行き、そのまま義父母の家に「避難」しました。

建物は無事でしたが、家の中はほぼ壊滅状態でした。

あれから、5週間。

ガソリンが手に入らないとか、食料品を買うのに3時間並ぶとか、毎日バスで通勤するとか、していたことが信じられないくらい、普通に戻りました。我が家の給湯器も先週交換されて使えるようになりました。

まだ、M8クラスの余震があると言われています。これだけ大きな地殻変動が起きたのですから、まだまだその余波は続くでしょう。少なくとも、あと1年は地震と共存していかなければならない、と私は思っています。

まだ、ウチは被害の無いレベル。全てを失った人達が大勢いるのです。

頑張ろう、っていうのは、被災者同士で言う言葉。決してテレビでタレントが言うもんじゃない。薄っぺらくて、いかがわしい。

頑張るのは「日本」とか「国」じゃねえ。人だ。
「日本は強い国」、って言うなら、どうしてその強さを見せないんだよ。いつまで避難所に居させる気だよ。強い国なんだろ。

くだらねえ。

騙されるな。

生き抜こう。

▼駐車場の地割れ。日に日に段差が大きくなっているように思います。
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▼地震当日の古川市内。
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コメント

  1. お猿の籠屋台 より:

    筆をとれない心中、お察しします。blog、再開されるのを心待ちにしていました。
    私も、国や報道のあり方に、違和感…というより、怒りを感じています。誰のための復興なのかと。

  2. billancourt より:

    お猿の籠屋台 さん >
    コメントありがとうございます。
    地震から45日も経つのに、宮城県だけで避難者4万1千人。
    13万人もの人が避難生活を送っているというのに、復興のために「消費税増税」などと平気で言える人たちが私は信じられません。

  3. じなん より:

    >なんとなく帰ってくるような気がしたものですから
    虫の知らせか?
    >サイドブレーキを引いているのに動いていきそうな状態に。
    揺れの大きさのほどが分かる。
    >揺れが治まったと同時に、ラジオから「津波が来ます。ただちに高いところに避難してください」と絶叫
    本当にあっという間だったんだ・・・
    >刑事ドラマばりにUターンし、
    どんなUターンだ(^_^;)
    >児童館に迎えに行き、そのまま義父母の家に「避難」しました。
    良かった。
    >頑張ろう、っていうのは~~~生き抜こう。
    まったくその通り。だから俺も呟きたくもない・・・。

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